今までは、明治・大正・昭和に早稲田・牛込・神楽坂界隈に住んでいた小説家などの文化人をご紹介しましたが今回は少し趣を変えて、発表した作品に牛込や神楽坂の描写がある文化人を作品と共にご紹介いたします。
まず一人目は江戸随一といわれた狂歌師、大田南畝。もう一人は昭和初期に活躍した小説家、矢田世津子です。
早稲田・牛込・神楽坂に暮らした文化人
大田南畝(おおた なんぼ)文人・狂歌師、御家人
本 名:名は覃(ふかし)。字は子耜(しし)。通称は直次郎。
南畝は号で別号として蜀山人(しょくさんじん)、玉川漁翁や四方赤良(よものあから)、
山手馬鹿人(やまのてのばかと)など複数。
生没年:1749(寛永2)年〜1823(文政6)年
出生地:牛込中御徒町(現在の新宿区中町)生まれ
出典:国立国会図書館デジタルコレクション
NHK大河ドラマ『べらぼう 〜蔦重栄華乃夢噺〜』で再注目
現在(2025年)放送されているNHKの大河ドラマ『べらぼう』で、桐谷健太さんが演じる大田南畝は、江戸時代の老中・田沼意次(たぬま・おきつぐ)時代から田沼失脚後の“寛政の改革”を行った松平定信(まつだいら・さだのぶ)の質素倹約時代を表現する重要な表現者です。
この大田南畝は幕臣の下級武士(幕府の御徒士)大田正智の長男として1749(寛永2)年に牛込中御徒町(現在の神楽坂上の中町)に生まれます。当時の家禄は70俵5人扶持(現在の年収で約300万円)という御目見(おめみえ)以下(将軍に謁見できない身分)の貧乏な御徒士でした。
平賀源内や版元の蔦屋重三郎、浮世絵師の喜多川歌麿など当時の文化人とも交流があり、華やかな江戸出版界の中心人物でした。大田南畝の名は現代でも落語や時代小説などに登場し、御徒士という低い身分ながら豊富な知識と能力によって、人生の後半は出世し重要な任務をにないました。
大田南畝が記した牛込の様子
そんな大田南畝(おおた・なんぼ)は生まれ育った牛込の住まいの様子を手記『山手閑居記』に次のように書いています。
『山手閑居記』
わが庵は松原とをく海ちかくと詠けん むさし野の広小路にむすべる、芝のはてにもあらず、ちは振(ちはやぶる)神田浅草のにぎやかならぬも、よしや足引の山の手になんすめりける。
春は桃園の花に迷ふ外山の霞たゝぬ日もなく、夏は江戸川の螢をみる 目白の滝の音たえず、秋は高田のかりがねに、民の貢の未進をあはれみ、冬は富士を根こぎにして、わが鉢の木の雪とながむ。
四季折々の美景をいはゞ、番町の道の一筋ならず、大木戸の駒のひきもきらざるべし。古寺の甍やぶれて、昼無尽(むじん)の講を催し、神の宮居も所せく、夜うかれめのふしどゝなれり。
頭にをくしも屋敷もり、うきをみるめのうらがしやまで、たゞ何となくひなびたり。むべも富ける殿づくりに、みつばよつばのつるをもとめ、よきゝぬきたる身のほども、いざしら壁のいちぐらをうらやむともがらは、此地の住居はなりがたからん歟、さはいへ、ひとへに深き山にかくれん坊をし、とをき海に沖釣をせんとにはあらず。吏にして吏ならず。
隠にして隠ならず。朝野の間にのがれんとならば、いづこか此やまの手にしかざらめやは窓のうちにふじのねながらながむればたゞ山の手にとるとこそみれ
【山手閑居記の意訳】
私の庵(住まい)は、海岸の松原からは遠いが(古歌の「松原は遠く、海は近く」を引用?)、海の近くとしておこう。武蔵野の広い道(広小路=火除地、今の神楽坂上から大久保に向かう大久保通りあたり)につながってもいる。芝(芝の増上寺あたり?)の端ではないが、神田や浅草の賑やかさもない、足引が生える山の手である。
春は桃園の花に心浮き立ち、里に近い山の霞が焦る日もなく、夏は江戸川(現在の神田川)の蛍を見ながら目白の滝の音が絶えず、秋は高田(高田馬場あたり)の雁に、民の貢物の未進を哀れに思い、冬は富士山を根こそぎにしたように、私の鉢の木に降り積もる雪を眺める。
この土地の四季折々の美しい景色を語るには、番町の多くの道のように話は尽きず、大木戸(甲州街道の玄関口、四谷大木戸)の馬の往来が絶えないように、いくらでも話せるだろう。古い寺の屋根はくずれ、その下では昼間から無尽講(むじんこう)を催し、神聖な神社も窮屈そうに見え、夜には遊女たちの寝床となっている。裕福な大名屋敷を見て、浮世を見る目の裏側まで、ただ何となくひなびている。
確かに裕福な殿様の家に、三つ葉や四つ葉のつるを求め、良い身分の人々はいざ知らず、白壁を羨むこともあるだろうが、この土地は住みにくいのだろうか。そうとはいえ、私はただ山深いところに隠れ住むでもなし、遠い海で沖釣りをしようというわけではない。役人でありながら役人でなく、隠居のようにやることがないけど、隠居ではない。窓の内から富士の峰を眺めていると、ここがまぎれもなく「山の手」なのだと確信する。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(嘉永2-文久2[1849-1862] )
文化人としての大田南畝と幕臣としての出世街道
大田南畝は17歳で御徒士を継いだが、仕事は月に数回ほど出勤すれば良い程度で、余暇がたっぷりあったことも文化人・南畝の誕生に影響したのでしょう。その南畝は儒学者の松崎観海(太宰春台の門人)に入門し、漢学を学び18歳の時にデビュー作『明詩擢材』(明詩を題材にした作詩用語字典)を出しています。明和4 (1767)年には狂詩・戯文集『寝惚先生(ねぼけせんせい)文集』で評判となります。同書の序文は交流があった平賀源内が書いています。また、南畝は同時代の事件・風聞から歴史的なことまで、目にしたあらゆる事を書き残した功績もあり、時代の記録者として後の世でも評価されています。
そんな南畝が黄表紙(きびょうし)や洒落本(しゃれぼん)を次々と書いたのは、小銭稼ぎが目的だったともいわれています。少しでも家計の足しにと考えたのでしょう。
しかし、大田南畝は17歳で家督を継ぎ貧しい御家人として幕府に仕えますが、寛政6 (1794)年、45歳で学問吟味(幕府が幕臣とその子弟を対象に実施した学力試験)を首席で合格して、褒美として銀10枚を賜り、寛政8 (1796) 年には支配勘定(勘定奉行の配下)に任じられます。その後、文化元(1804)年には長崎に赴任して、長崎会所の監察などを任務(南畝の公務日誌より)する出世をしました。
出典:国立国会図書館デジタルコレクション(文政6年、75歳のころの大田南畝)肖像 2之巻より
矢田世津子(やだ つせこ)小説家・随筆家 本 名:矢田世津子 生没年:明治40(1907)年6月19日〜昭和19(1944)年3月14日 出生地:秋田県五城目町古川町(現在の同町下夕町)生まれ
新宿区内に暮らした時期 落合町大字下落合1470・・・・・・・・・・・・昭和6年8月~7年11月 【目白会館内】落合町大字下落合1986・・・・・昭和7年11月~14年7月 下落合4-1982・・・・・・・・・・・・・・・・昭和14年7月~15年6月 下落合4-2015・・・・・・・・・・・・・・・・昭和15年6月~16年3月 下落合4-1982 ※同地にて死去・・・・・・・・昭和16年3月~19年3月
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」より
矢田世津子の家族は、秋田市に住んでいましたが五城目町の町長に請われ1898年に一家を上げて本籍ごと五城目町に移住しています。その後、秋田市に戻り1916年世津子9歳の年に東京の飯田橋に移り住み、世津子も飯田橋の富士見尋常小学校に転校して来ました。世津子が麹町高等女学校にいる時に兄の不二郎が世津子の文学的才能を見いだし、兄の勧めもあり世津子は生涯作家活動にいそしみます。また、世津子は女性だけの文学団体『女人芸術』に参加し、昭和5(1930)年「罠を跳び越える女」が『文学時代』の懸賞小説に当選。文壇に登場します。
その後は、坂口安吾らと同人誌『桜』を創刊し、次いで『日暦』『人民文庫』に参加。この坂口安吾が愛した女性としても有名な世津子は、昭和11(1936)年に小説『神楽坂』が第3回芥川賞候補となり、作家としての地位を確立します。以後『茶粥の記』(1941)等の作品を残し、昭和19(1944)年に36歳の若さで肺患のため死去します。
この世津子を有名にした小説『神楽坂』には昭和初期の神楽坂界隈の様子が「毘沙門の前を通る時、爺さんは扇子の手を停めてちょっと頭をこごめた。そして袂へいれた手で懐中をさぐって財布をたしかめながら若宮町の横丁へと折れて行く」や「馬淵の爺さんが妾宅を出たのは十一時が打ってからであった。毘沙門前の屋台鮨でとろを二つ三つつまんで、それで結構散財した気もちになって夜店をひやかしながら帰って行く」という細かな描写にも表れています。
この小説のあらすじは、「神楽坂で金貸し業を営む馬淵の爺さんは、袋町の小間物屋の娘「お初」を妾として囲い、そこへ足繁く通う。一方、病床で爺さんの帰りを待つ妻は病状良くなく、「娘のお初を馬淵家の後釜に据えたいおっ母さん」「養子縁組みをはかりたい強欲な親戚たち」と神楽坂を舞台に庶民の生活を描いた小説です。
ちなみに、この小説『神楽坂』はYouTubeの「海渡みなみの朗読アラモード」(以下のQRコード)で無料で視聴できますのでお時間のある時にみてはいかがでしょうか。