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歴史的⽂化⼈が愛した早稲⽥・⽜込・神楽坂・・・第五回目

 今回は、明治・大正・昭和に早稲田・牛込界隈に住んでいた有島武郎、内田魯庵、永井荷風をご紹介いたします。

 この3人の文豪は「人はどう生きるべきか」という問いに正面から挑み、その「生き方」に光をあててみました。ある者は愛に燃え、ある者は知を掘り下げ、ある者は孤独に美を見いだした生涯です。彼らの生きざまは、単なる文学史の記録ではなく今を生きる私たちの鏡でもあります。

 

早稲田・牛込・神楽坂に暮らした文化人

〈愛〉に殉じた理想の人、有島武郎
〈知〉で時代を支えた静かな巨人、内田魯庵
〈孤独〉を美学に変えた自由人、永井荷風

有島武郎(ありしま たけお)小説家・随筆家
本 名: 同上
⽣没年: 1878(明治11)年3月4日~1923(大正12)年6月9日
出⾝地:東京市小石川
◆早稲田・⽜込・神楽坂界隈で暮らした時期
(新宿区の『区内に在住した⽂学者たち』より)
1922(大正11)年3月~・・・・・・原町2-72(現:新宿区原町2-71-1)
1923(大正12)年3月~6月・・・・南寺町7(現:新宿区市谷薬王寺町あたり)

主な作品:『カインの末裔』『或る女』

 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 

 有島武郎は明治後半から大正にかけて活躍した小説家です。武郎は1878(明治11)年、東京市小石川の水道町(現在の文京区)に大蔵官僚・実業家の有島武の長男として生まれます。家が裕福だったため、学習院中等科を卒業後は北海道の札幌農学校(現在の北海道大学)に進学し、1903(明治36)年にアメリカへ留学、その後イタリアに留学していた弟で画家の有馬生馬と共にヨーロッパを遊学し帰国後に農学校の教職に就きます。この教職時代に、もう一人の弟で作家の里見弴(さとみとん)や武者小路実篤、志賀直哉とともに同人誌『白樺』に参加し、小説や評論を発表しはじめます。

 しかし、1916(大正5)年、8月に妻の安子を12月に父親の武をあいついで亡くし、翌年には農学校を退職します。ただ武郎は、この時期を境に『カインの末裔』『小さき者へ』『生れ出づる悩み』『或る女』などの代表作を次々と発表し、作家としての地位を確立しました。彼の文学は、まさに信念そのものの軌跡であったといえます。

 北海道の開拓地や農村を舞台に、人が人として生きる意味を問うた『カインの末裔』には、いつも誠実な痛みが流れていました。欧米思想に学びつつも、そこに留まらず、日本という土の上で「真実の人間」を見いだそうとしています。その姿勢は、時に頑なで、時に限りなく優しいものです。もう一つの代表作『或る女』は、自らの信念を貫こうとする女性の「生」を通して、自由と道徳、理想と現実のせめぎ合いを鋭く描き出したものです。

 武郎は作家として、また人として、小説の中だけでなく、私生活でも徹底して「誠実であること」にこだわり抜き、その生涯は短くも清冽な光を放つものでした。

 ただ、『婦人公論』の記者で人妻・波多野秋子との関係は、社会から見れば背徳であっても、彼には真実であり、誠実の証だったようです。1923(大正12)年6月9日武郎は秋子と軽井沢の別荘で心中し45年の生涯を終わらせています。

 波多野秋子と心を通わせたその行動は、愛を「罪」ではなく「真実」として選んだもので、その最期は、彼の文学そのもののように、まっすぐで、そして痛切に美しい「理想に生き、理想に燃え尽きた男」といえるでしょう。

 

内田魯庵(うちだ ろあん)評論家・小説家・翻訳家
本 名: 内田貢(みつぎ)
⽣没年: 1868(慶応4)年4月5日〜1929(昭和4)年6月29日
出⾝地: 江戸下谷(現:東京都台東区)

◆早稲田・⽜込・神楽坂界隈で暮らした時期
(新宿区の『区内に在住した⽂学者たち』より)
1901(明治34)年・・・・・・・・・・・・・・牛込東五軒町54
1902(明治35)年・・・・・・・・・・・・・・市谷砂土原町3-8
1903(明治36)年・・・・・・・・・・・・・・新小川町3-6
1904(明治37)~1907(明治40)年・・・・・・市谷砂土原町3-8
1908(明治41)~1913(大正2)年・・・・・・市谷砂土原町2-6
1913(大正2)年・・・・・・・・・・・・・・淀橋町大字角筈607
1914(大正3)~1925(大正14)年・・・・・・ 淀橋町大字柏木371
1925(大正14)~1929(昭和4)年・・・・・・大久保大字百人町384

在住時の主な作品:「貴婦人」、「すねもの」、「思いだす人々」


 

 内田魯庵は1868(慶応4)年、近代国家へと生まれ変わる明治政府誕生の年に旧幕臣の子として江戸下谷(現・台東区)に生まれます。その後、立教学校(現・立教大学)、東京専門学校(現・早稲田大学)などに入学しますがいずれも中退。魯庵は1888(明治21)年に山田美妙『夏木立』の評論が「女学雑誌」に掲載されて文壇に登場します。以後、文芸評論を中心に活躍し、ドストエフスキー『罪と罰』を読んで小説観を一変し、数々のロシア文学を翻訳し日本へ紹介します。

 1901(明治34)年、書籍部門の顧問として丸善に入社し、新宿区の牛込東五軒町に引っ越します。その後、亡くなる直前までの約30年近くを新宿区内で過ごします。丸善ではPR誌「学燈」の編集に晩年までたずさわり、匿名で書評や随筆を書いています。1906(明治39年)に出版されたトルストイの翻訳『馬鹿者イワン(イワンのばか)』も同誌に連載されたものです。

 丸善の顧問を務めるうちに蔵書や書誌・図書館・出版事情といった文壇以外の世界にも関心を拡げます。また、若い頃から知人を訪問し長話する習慣を持ち、多くの趣味の会を主催したため、人脈も多岐にわたり博識に磨きをかけたようです。

 晩年は、文壇を退き、主に江戸文学や風俗について考証し、文壇回顧、人物評伝、随筆などを執筆していました。

 1929(昭和4年)『下谷広小路』の執筆中に脳溢血で倒れ失語症となり、同年6月に大腸カタルによる衰弱のため61歳で代々木の自宅で死亡します。

 華やかな文壇の陰で、明治文学の骨格を築いた知の巨人、内田魯庵。彼の仕事は、単に批評家や翻訳家という枠を超えて、日本近代文学を耕す行為だったといえます。時代を超えてもなお、魯庵の文章には「書くとは、考えることであり、生きることである」という信念が息づき、激動の時代でも常に冷静で、ただ「言葉を愛し、人を支えた」知の人でした。

 
永井荷風(ながい かふう)小説家・翻訳家・随筆家
本 名: 永井壯吉(ながい そうきち)
⽣没年: 1879(明治12)年12月3日~1959(昭和34)年4月30日
出⾝地:東京市小石川

◆早稲田・⽜込・神楽坂界隈で暮らした時期
(新宿区の『区内に在住した⽂学者たち』より)
1908(明治41)年8月~1918(大正7)年12月・・・東京市牛込区大久保余丁町79(現:新宿区余丁町)

在住時の主な作品:『腕くらべ』『つゆのあとさき』『濹東綺譚』

 出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」

 

 永井荷風は1879(明治12)年、東京市小石川区金富町(現:東京都文京区)に生まれます。父の永井久一郎は実業家で漢詩人。祖父は儒学者です。

 荷風は24歳の1903(明治36)年からアメリカ、フランスを外遊し、1908(明治41)年に帰国。同年に『あめりか物語』を発表し、多くの読者を獲得しました。翌1909(明治42)年発表の『ふらんす物語』は発禁となりますが、続いて『孤』『新帰朝者日記』『すみだ川』などを発表。1910(明治43)年には上田敏、森鴎外の推薦で慶応義塾教授となり「三田文学」を創刊します。しかしその後、江戸戯作の世界に入り『新橋夜話』など花柳界ものを多く発表しています。

 1917年37歳時点で、すでに文名を確立した新進作家でしたが、前年の1916年に慶応義塾大学の教授を辞め、かつて両親らと暮らした東京市牛込区大久保余丁町(現:新宿余丁町)に戻り、邸内の一隅を腸に持病があるので「断腸亭(だんちょうてい)」と名付け書斎とします。1918年には余丁町の屋敷を売り築地二丁目に移り、1919年には麻布市兵衛町一丁目(現:六本木一丁目)に新築した偏奇館へ移ります。「偏奇館」の名前は外装の「ペンキ」と己の性癖の「偏倚」にかけた命名です。ここでは時折、娼婦や女中を入れることはしたが、妻帯し家族を持つのは創作の妨げとなると公言し、生涯一人暮らしでした。終戦を迎えてから千葉県市川市に戻り、1959(昭和34)年4月自宅で死去します。

 荷風は、長年通い続けた浅草アリゾナで昼食中、歩行困難となり自宅に近い食堂大黒屋で食事をとる以外は家に引きこもります。

 喧噪に背を向け、静かに筆をとった孤高の文人、永井荷風は、西洋の文化を愛しながらも、日本の古き風雅と市井の情を見つめ続け、常に「変わりゆくもの」への哀惜に満ちていましした。『腕くらべ』や『濹東綺譚』に描かれるのは、華やかな享楽と、そこに潜む孤独の影。その文体は気品にあふれ、退廃をも美へと昇華する力をもつ作品です。荷風にとって文学とは、時代に抗い、ひとりの人間の誇りを刻む行為だったのです。孤独を恐れぬ精神こそ、荷風文学の真の美学でした。

 荷風の死後、机には未整理の原稿と、読みかけの本が残っていたといいます。そして常に持ち歩いていたボストンバッグには土地の権利証、預金通帳、文化勲章など全財産が入っていたそうです。