今回は、明治末から昭和へと移りゆく東京、牛込界隈には“庶民の生活”に目を向けた自然主義とよばれた作家たちが集まっていました。そんな自然主義といわれた作家の中かから田山花袋、加能作次郎、宇野浩二の三人をご紹介いたします。
田山花袋は、日常の風景に人間の欲望を描き、加能作次郎は、庶民の暮らしに潜む温かな情に光をあて、宇野浩二は、弱さや孤独を誰よりも深く抱えながら、それをそのまま作品にしています。
三人の作品に共通していたのは「美化しない」という覚悟です。華やかな文壇の中にいながらも、自分自身の傷や恥をさらけ出し、生活の匂いまで書いています。牛込という土地は、彼らにとっての“人生の実験場”であり、文学の源泉だったのでしょう。
田山花袋(たやま かたい)小説家
本 名:田山録弥(ろくや)
⽣没年:1872(明治4)年1月22日~ 1930(昭和5)年5月13日
出⾝地:栃木県館林市
◆早稲田・⽜込・神楽坂界隈で暮らした時期 (新宿区『区内に在住した⽂学者たち』より) 1886(明治19)年7月~1889年2月 市谷冨久町120(14歳、一家で上京) 1889(明治22)年2月~同年12月 牛込納戸町12(17歳)へ引っ越す 1889(明治22)年12月~1893年9月 市谷甲良町12 1893(明治26)年9月~1896年1月 四谷内藤町1(21歳) 1896(明治29)年1月~1902年6月 牛込喜久井町20(24歳) 1899(明治32)年 27歳で結婚 1902(明治35)年6月~同年9月 牛込納戸町40 1902(明治35)年9月~1903年10月 牛込原町3-68 1903(明治36)年12月~37年5月 牛込若松町137 1904(明治37)年5月頃 市谷薬王寺門前町55 1904(明治37)年11月~1905年6月 牛込弁天町42 1905(明治38)年6月~1906年12月 牛込北山伏町36出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
父亡き後の貧しい生活
田山花袋は、明治4年(1871年)12月、田山家の次男として生まれました。父は後に東京の警視庁に勤務することとなり一家は東京へ移り住みます。しかし彼が5歳のとき、父は西南戦争に出征し戦死します。これを機に一家は再び栃木県館林へ戻りますが、父の死後、家計は一気に逼迫し花袋は9歳で丁稚奉公に出されます。いくつかの奉公先を転々とするものの、どれも長続きはしませんでした。14歳のとき、一家で再度上京したことをきっかけに、花袋は漢詩や和歌、西洋文学などの学びに触れるようになります。
この頃、柳田國男や尾崎紅葉の存在を知り、文学への志を強めていきます。そして19歳の年、尾崎紅葉を訪ねて弟子入りし、ここから花袋の小説家としての人生が本格的に始まります。
もっとも、14歳での再上京後も生活の苦しさは変わりませんでした。市谷や牛込界隈で転居を繰り返す不安定な暮らしのなかで、花袋は「人の生活をありのままに描写する小説」という独自の表現を育んでいったのです。
覗き込む視線の冷たさと、逃げ場のなさ
田山花袋という作家を語るとき、「露骨」「赤裸々」といった言葉がしばしば用いられます。しかし彼の本質は、そうした表現の過激さよりも「逃げることを自分に許さなかった人間」であった点にあるでしょう。
代表作『蒲団』に象徴されるように、花袋は自らの内に芽生えた欲望や後ろめたさを、隠すことなく正面から書きつけました。その姿勢は、告白することの快楽というよりも、「書かねばならない」という強迫観念に突き動かされているかのようです。
牛込の家での暮らしも、決して華やかなものではありませんでした。家計に追われ、家庭人としての責任と作家としての衝動との間で揺れ動きながら、花袋は日々の生活に沈殿する感情や葛藤を作品へと昇華させていきます。
彼の文章に漂う息苦しさは、文学的な演出というよりも、生活そのものがもたらす圧力の反映でした。そこにこそ、田山花袋文学の核があるのです。
加能作次郎(かのう さじろう)小説家・評論家・翻訳家
本 名: 加能作次郎
⽣没年: 1885(明治18)年1月10日~1941(昭和16)年8月5日
出⾝地: 石川県志賀町
◆早稲田・⽜込・神楽坂界隈で暮らした時期 (新宿区『区内に在住した⽂学者たち』より) 1907(明治40)年4月 早稲田大学文学部に入学(22歳) 1910(明治43)年4月 牛込下戸塚町『恭三の父』発表 1911(明治44)年 早稲田卒業 1912(明治45)年2月 早稲田鶴巻町37【日進館】 1914(大正3)年3月 新小川町3-19(結婚) 1916(大正5)年4月~1930(昭和5)年 南榎町57 1931(昭和6)年1月~1941(昭和16)年8月 市谷薬王寺町83 ※同地にて死去出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
苦難の幼少期から大学への進学
作次郎は少年時代、京都に住む伯父のもとに預けられ、苦難の多い幼少期を過ごしたといわれています。その後、早稲田大学に進学し、在学中は早稲田や牛込、市ヶ谷周辺で暮らしました。
大学卒業後は博文館に入社し、文芸誌『文章世界』の主筆として、翻訳や評論の執筆に携わります。こうした活動を通じて文壇での足場を固めていきました。
代表作には、文壇での地位を確立した『世の中へ』や『若き日』があり、晩年には傑作と評される『乳の匂ひ』を発表しています。
生活の底に沈んだ、小さな灯り
作次郎の作品は、田山花袋と同様に自然主義文学の系譜に属し、日常生活を静かに描く小説として知られています。物語の舞台は、派手な事件や劇的な転換とは無縁の世界です。長屋の一室、行き詰まった商売、口数の少ない家族――どこにでもある庶民の暮らしが、作品の中心に据えられています。
しかし彼の文学は、その「どこにでもある」生活の底から、人の心の微かな温度をすくい上げる点に特徴があります。
作次郎自身も、決して恵まれた人生を歩んだ作家ではありませんでした。生活は常に苦しく、作家としての評価も安定しないまま、それでも黙々と書き続けたといいます。にもかかわらず、その文章に流れているのは投げやりな諦念ではなく、「それでも人は生きていく」という静かな肯定でした。たとえば、貧しさのなかで交わされる何気ない言葉や、無言のまま差し出される一杯の茶。彼はそうした一瞬にこそ、人が人である証を見出していたのです。
牛込という町は、作次郎にとって、声を荒らげることなく人間を書くことのできる場所だったのでしょう。そこにあったのは、文学的な野心以上に、日々の暮らしへの誠実さでした。
宇野浩二(うの こうじ)小説家・随筆家
本 名: 宇野格次郎
⽣没年: 1878
出⾝地: 福岡県福岡市
◆早稲田・⽜込・神楽坂界隈で暮らした時期 (新宿区『区内に在住した⽂学者たち』より) 1910(明治43)年11月~翌年3月 牛込喜久井町【三州館・若松館】 1911(明治44)年3月~1913(大正2)年5月 牛込白銀町【都築方】 1914(大正3)年3月~翌年 3月 原町【清月館】 1919(大正8)年3月~同年4月 神楽町【神楽館】 1919(大正8)年5月~翌年4月 袋町【都館】
出典:国立国会図書館「近代日本人の肖像」
弱さを抱えたまま、生き延びる文学
宇野浩二ほど、「弱さ」を隠さなかった作家は多くありません。彼は強くなろうとしませんでした。成功者の顔を装うこともなく、劣等感や孤独、世間とのずれを、そのまま作品の中に差し出したのです。
浩二の作品に登場する人物たちは、どこか居心地の悪そうな表情をし、人付き合いが苦手で、社会の歯車にうまく噛み合わず、いつも一歩引いた場所に立っている。けれどそれは作り物の人物ではなく、ほとんど宇野自身の写し絵でした。
牛込での生活も、彼に安らぎをもたらしたわけではありません。むしろ、人との距離感に悩みながら、孤独を深めていく時間だったともいえるでしょう。それでも浩二は、その孤独から目を逸らさず、否定することもなく書き続けました。
彼の文学にあるのは、「立派に生きる」ことへの憧れではなく「不器用なまま生き延びる」ための知恵です。宇野浩二の文章が今も読まれるのは、弱さを克服する物語ではなく、弱さとともに生きる姿を誠実に描いたからでしょう。その姿勢が、時代を越えて読み手の心に触れ続けているのです。
坂道に滲む孤独
牛込は、平坦な町ではありません。坂を上り、下り、曲がるたびに、視界は少しずつ変わっていきます。宇野浩二の文学は、この不安定な地形とよく似ています。彼は、人付き合いが得意な作家ではありませんでした。牛込での暮らしも、決して社交的なものではなく、孤独を深める日々だったといわれています。彼の散歩は、町を楽しむためというより、自分の居場所を確かめる行為だったのかもしれません。
彼の作品に描かれる人物たちは、社会の中心からわずかにずれた場所に立ち、起伏の多い神楽坂の土地で、足元を確かめながら歩く感覚と重なります。
浩二は強くあろうとせず、弱さを抱えたまま生きる姿を、そのまま書きました。牛込の坂道に立つとき、浩二の孤独は、特別なものではなく、誰の胸にもひそむ感情として感じられるはずです。そんな宇野浩二の作風は私小説・風俗小説の分野で高く評価され、多くの作品を残しました。なかでもよく知られているのが、『蔵の中』『思ひ川』『風雨強かりし日』『枯木の家』です。
最後に
田山花袋、加能作次郎、宇野浩二の暮らした牛込界隈は、文学が生まれる「生活の場」だったのです。三人に共通していたのは、文学を特別なものにしなかった点でした。彼らは、生活の延長線上で書き、牛込という土地で、自分自身を観察し続け、日常を隠すことなくありのままに表現していったのです。
この町は、彼らに成功や栄光を与えたわけではありません。しかし、人間をそのまま書く覚悟を育てた場所だったのです。文学散歩として牛込を歩くことは、作品の舞台をなぞるというより、作家たちが感じていた生活の重さや息遣いを追体験することなのかもしれません。
