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古絵地図から読み解く、江戸川橋周辺の今昔物語③

 今回の牛込探訪は、江戸時代後期の1842(天保13)年に作られた『牛込小日向音羽町辺場末』(国会図書館デジタルコレクション)という古地図から今の早稲田周辺をご紹介いたします。この古地図は土地の使用状況を8つの色で分けたもので、赤色部分がお寺や神社(見やすくするために赤色を濃くし、寺社名などに手を加えています)となっています。他にも屋敷、田畑、町屋、道、川なども確認できます。

 この早稲田近辺の寺社仏閣は、今もこの地に残るものが多くありますが、道の拡張や時代変化により、かなり小さくなっているお寺もあるようです。また「百人組大縄地」などの縄地(なわち)という組屋敷も多く見られます。この縄地は同じ組に属する武士集団に与えられた区割りになります。他にも現在の早稲田大学の敷地となっているあたりには、井伊掃部頭(いいかもんのかみ)の下屋敷(地屋敷)が地図の右下に見受けられます。

 その昔、早稲田はその名の通り、神田川の影響で早稲の繁る湿地が多く、田んぼや畑として使用されていましたが、江戸時代の多くの大火により、早稲田の地も整地が進み、外堀内側の火除地を作るためにお寺や武家屋敷の多くがこの地のように当時の郊外(外濠の外)へと移転させられたと聞いています。

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 古地図の下に現在の早稲田近辺の地図を入れておきます。古地図と比較してみてください。ちなみに黄色の道は江戸時代後期の道とほぼ同じ位置にあります。現在も多くのお寺や神社が今なお、この地に残っているのがわかります。

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 次の地図は、早稲田周辺の現在の地形図になります。これをみるとお寺の置かれた地域が、高台と平地の境目や谷沿いに集中して配置されているのが見て取れます。これは、江戸幕府の寺請制度(てらうけせいど)や大火事後の集団移転の結果だといえるかもしれません。

 高台は高級中級武士、中間の地は下級武士、平地は町民と区分けされ、それぞれにどこかのお寺に属さなければならないため、人口の多いこの地にはこれだけのお寺が必要だったのかもしれません。