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古絵地図から読み解く、江戸川橋周辺の今昔物語①

 今回の【牛込探訪記】は貞享4(1687)年と元禄12(1699)年、そして現在の江戸川橋周辺の絵地図を比較してみました。そこから見えてくるものは、江戸時代に発展した江戸川橋から音羽の歴史です。

 

絵地図A(貞享4(1687)年の江戸大絵図)             絵地図B(元禄12(1699)年の江戸大絵図)
出典:国立国会図書館デジタルコレクション「ゑ入江戸大繪圖」    出典:国立国会図書館デジタルコレクション「江戸大絵図元禄十二年」
 令和4(2022)年の江戸川橋から音羽にかけての地図  出典:©️2022 Google

 ご存じの方も多いと思いますが、護国寺は天和元年(1681)に5代将軍徳川綱吉により生母(桂昌院)のために創建されたお寺です。絵地図Aは創建後6年目のものになります。当時そこは幕府所属の高田薬園の地で、まだ護国寺周辺は畑や田んぼに囲まれた農村地帯だったことがわかります。

 その後の元禄(1688〜1704)年間に入ると、町人を中心とした華やかな元禄文化が盛り上がる時期になります。絵地図B(元禄12年の図)はちょうど元禄文化の中間期、絵地図Aから12年後の江戸川橋から音羽にかけてです。1687年(絵地図A)当時には無かった門前町ができていることが見受けられます。また、江戸川橋周辺も田んぼしか無かった土地に町屋が川沿いのできているのがわかります。

 しかし、江戸時代はいくら元禄文化花盛りといっても女子供は江戸の街から出ることがなかなかできない時代、そこで「お花見や名所詣など見物をしたい!」と庶民の欲求が膨れ上がった結果、近場の名所だったら行けると、当時の観音信仰(観音巡礼は元禄年間にできた武蔵三十三箇所と江都古来三十三箇所の2つあった)と相まって護国寺の門前町が栄えたわけです。

 ではなぜ江戸川橋に向けて門前町が出来たかというと、神田川を使った水上交通が便利だったからです。

 江戸川橋付近まで小舟や屋形船をしつらえ、着飾った人々が観音巡礼と称して、春はお花見、夏は蛍見物、秋は紅葉と大勢の人々が訪れたことが、絵地図Bの街の様子からもわかります。

 ちなみに護国寺には元禄期の観音堂(本堂)が当時の姿をそのままに現在も残っています。是非この機会に参拝してみてはいかがでしょうか。

 

護国寺(ごこくじ)
東京都文京区大塚5-40-1
http://www.gokokuji.or.jp/