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昭和と今の神楽坂界隈を写真で見比べる②

 今回も前回に続き、昭和の古い写真から当時の神楽坂界隈を垣間見ることにいたします。下の写真は昭和27(1952)年の神楽坂下に今もある「志満金」前を撮影したものです。

出典:新宿歴史博物館「データベース写真で見る新宿」より

同じ角度から今の神楽坂「志満金」前を撮影した写真と比べてみましょう。

 現在の写真で、左手手前の緑庇テントが田口屋の生花店です。その上が鰻割烹の志満金(しまきん)です。

 鰻割烹の志満金は明治2(1869)年創業で当時は牛鍋「開化鍋」屋だったそうで、明治の牛鍋は「文明開花」の味がすると言うことから「開化鍋」とよばれ、日本での肉食文化の始まりの象徴だったようです。ちなみに、当時の志満金は「島金」という店名だったようです。

 昭和27年の写真を拡大してみると、手前のネオン看板に「田口」の文字が読み取れます。生花店の田口屋さんです。その奥の看板に「志満金」の文字と次にブーツのネオン看板の「オザキヤ」靴店が確認できます。今もこの3軒は同じ場所、同じ店名でお店をやっています。ただオザキヤさんは最近、お店を閉めがちですが。

 次は奥の方を拡大してみました。ここには❶大島糸店、❷夏目写真館の看板が見えますが、2店とも現在は無いお店です。夏目写真館の後ろには❸仁丹の看板が見えます。このお店は多分、神楽坂薬局だと思われます。ここも現在は無いお店です。あと❹は銭湯の熱海湯さんの煙突です。まだ周りの建物が低いため、神楽坂下からでも煙突が見えていたようです。熱海湯さんは今も頑張って銭湯を続けています。

 ❺は車が対向に走っています。この頃はまだ対面通行だったようですが、神楽坂は買い物客のために歩道を広げた時点で、全国でも珍しい「逆転式一方通行」に変わっています。

 

昭和27(1952)年の暮らし

 昭和27年といえば、神楽坂芸者の「神楽坂はん子」が古賀正雄に見出され歌手デビューし『ゲイシャ・ワルツ』の大ヒットを出した年でもあります。

 他にも美空ひばりの『りんご追分(おいわけ)』のヒットやNHKラジオドラマ『君の名は』の放送開始、手塚治虫の『鉄腕アトム』が雑誌『少年』に連載が始まった年でもあります。あと、日本が戦後初めてヘルシンキ・オリンピックへ参加した事や映画『風と共に去りぬ』が日本公開、黒澤明監督の『生きる』封切りなどが続きます。

 昭和27年ごろの日常生活として、当時の雑誌『暮しの手帖』から「洗濯」に関する2つのエピソードをご紹介いたします。

出典:昭和30年刊行『暮らしの手帳30号、32号』より

 洗濯機が「家電の三種の神器」として、テレビ、冷蔵庫と並び「豊かな暮らし」の憧れとして、もてはやされたのが1950年代後半になります。その少し前の洗濯に関する記事です。

 30号「電気せんたく機のこと」からの一文「電気せんたく機で、一枚や二枚の肌着を洗っても、水と一緒に廻ってしまって、よく洗えないし、不経済になります。その意味では、夫婦ふたりきり、といった家庭では、それほどご利益はありません。電気せんたく機が偉力を発揮するのは、多ぜいの家族のとき、ことにコドモの多い家庭です」とあります。

 32号では、「妻:コドモが何人できたって、わたし、停年まで働くつもりですわ。でも、センタクをしてもらうの、やはり、ちょっと心苦しくて……。夫:ふたりとも働いているんだから、僕としては、あたりまえのことをしているつもりで、ふしぎそうに言われるのが、むしろふしぎなんです。」と書かれています。

 

 昭和27(1952)年の神楽坂は、まだ生活に根ざしたお店が並ぶ地域商店街の様子が残る一枚となっています。