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「神楽坂」の坂道紹介②

前回に続き、坂の町「神楽坂」の坂道について、2回目は「逢坂」「鰻坂」「鼠坂」「歌坂」「浄瑠璃坂」をご紹介いたします。

 花街として栄えた神楽坂には、江戸の昔より親しみを込めて古い坂道に名前が付けられています。それら代表的な坂道や石の階段道を地形図に合わせた現在の地図でご紹介いたします。ちなみに今回は1687(貞享4)年の江戸時代前期、「生類憐みの令」が出た年の古地図(出典:国立国会図書館)と比べてみました。下が1687年の地図です。

逢坂(おうさか)

 逢坂は別名、美男坂、大坂とも呼ばれ、高低差が8m程もある急坂です。逢坂のいわれは、奈良時代に都から小野美作吾(おののみさご)という役人がこの坂のそばに住んでいた時に「さねかずら」という美しい娘と恋仲になったが、やむなく都に帰えることになり、その後、美作吾は死亡し残された娘の夢の中、再び逢坂の坂上で逢うという物語から来ているらしいのですが、この物語は江戸時代に創作られたもので、大坂(おおさか)と言われていた坂道を逢坂(おうさか)と書き、悲恋物語に仕立て上げたもののようです。ちなみに娘の名前「さねかずら」はモクレン科のサネカズラから取り、このサネカズラの別名がビナンカズラで、そこから美男坂(みなんさか)とも呼ばれるようになったといいます。

鰻坂(うなぎさか)

 鰻坂は、その名のとうり道がクネクネ曲がっていることから付けられた名前だと伝わっています。現在は市谷砂土原町3丁目から坂を下り、牛込中央通りを挟んで市谷砂土原町2丁目あたりまで今度は登る坂道をさすようです。牛込中央通り(江戸時代は火乃番丁と呼ばれていた通り)は古地図を見ると、外堀通りから鰻坂までだったようです。今の牛込中央通りはその先まで伸びて、大久保通りを超えて早稲田通りまで繋がっています。

鼠坂(ねずみざか)

 鼠坂の由来は、江戸時代に「細くて長い坂道は鼠が通る道のよう」ということでその名がついたようです。ただ、現在の鼠坂は坂下が大日本印刷の敷地になり、坂道の長さもかなり短くなっているため、昔の「細くて長い」イメージは残っていません。また、坂の名前を記した標柱もありません。ただ、坂を登り切った先あたりに「浄瑠璃坂の仇討跡」とうい新宿区の指定史跡説明板があります。この仇討ちは江戸時代の三大仇討ちとも呼ばれ、総勢42名による討ち入りで、忠臣蔵の大石内蔵助もこの仇討ちをもとに策を練ったと言われています。

 なお、東京都内には同じ鼠坂という名前のついた坂道が文京区音羽一丁目と港区麻布永坂町にもあります。音羽の鼠坂は森鴎外の小説『鼠坂』の舞台となった坂道です。

歌坂(うたさか)

 この歌坂は雅楽(うた)坂ともいい、江戸時代初期に酒井雅楽頭(さかいうたのかみ)家の屋敷がこの坂道の東側にあったため、名付けられたといいます。

 酒井家は徳川家と同じく松平家を祖とする家系で、酒井広親の長男の氏忠は酒井左衛門督家、次男の家忠(後に雅楽頭)は酒井雅楽頭家とそれぞれの系統の始まりで、氏忠と家忠は家康青年期の重臣で、家忠から2代目の忠世は前橋藩主となり、老中にもなったようです。

浄瑠璃坂(じょうるりざか)

 坂名の由来は、「かつてこの近くに光円寺という寺があり、そこの本尊、薬師如来(薬師瑠璃光如来)が東方浄瑠璃の主であるため、あやつり浄瑠璃が行われていたから」となっています。もう一つの説が坂上に浄瑠璃の芝居小屋があった説などもあります。ただ、江戸初期の古地図では光円寺は確認できません。また、この付近は武家屋敷が並ぶ地域でしたので、浄瑠璃小屋があったという説も怪しいものです。しかし、前にも書きましたが1672(寛文12)年に坂上で浄瑠璃坂の仇討ちがあったことから、かなり前からこの坂は浄瑠璃坂と呼ばれていたのでしょう。

次回は、⓫朝日坂、⓬袖摺坂、⓭瓢箪坂、⓮相生坂、⓯赤城坂をご紹介いたします。