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「神楽坂」の坂道紹介③

今回の牛込探訪記も坂の町「神楽坂」の坂道紹介3回目です。「赤城坂」「朝日坂」「袖摺坂」「相生坂」「瓢箪坂」「御殿坂」の6本をご紹介。1687(貞享4)の古地図(出典:国立国会図書館)と照らし合わせながら解説いたします。

❶赤城坂(あかぎざか)

 赤城坂は赤城神社の横を通る坂道なので、この名がついたものです。坂自体は高低差が約6mあり、かなり急勾配の箇所もあります。そのため明治時代の『新選東京名所図絵』には「〜俊悪にして車通ずべからず〜」と記載があるようです。

ちなみに江戸時代の1834〜1836年に赤城神社と赤城坂が描かれた『江戸名所図会7巻』(出典:国立国会図書館)をご紹介いたします。

 赤城神社は江戸城を築城する際に太田道灌により牛込台に早稲田の田島村から移されたとされています。右手に鳥居が描かれていますが、こちらは今もそのまま神楽坂通りに向いています。左下に段差のある坂道が赤城坂になります。現在の赤城神社は同神社の氏子である建築家の隈研吾氏によるデザイン監修により、モダンな神社へと生まれ変わっています。

 

❷朝日坂(あさひざか)

朝日坂は旭坂とも呼ばれていたようで、赤城神社前のT字路から神楽坂へ下って最初に右へ入る横寺町へ伸びる坂道の名称です。新宿区の標柱には「『御府内備考』には、かつて泉蔵院という寺があり、その境内に朝日天満宮があったためこの名がついた」とあり、もう一説に「明治初年、このあたりは牛込朝日町と呼ばれていた」からとも記載されています。ただ、泉蔵院は正蔵院の隣にあったようですが、今はありません。このゆるい坂道は、両脇に数軒のお寺が点在する横寺町へと続きます。

❸袖摺坂(そですりざか)

 この坂名は、狭い坂道で通る人が互いに着物の袖を摺り合わせるほどの狭さからきたとされています。横寺町から現在の大久保通りに降りる10mほどの急な階段の道です。両脇を高台と垣根に挟まれ今も人一人が通れる狭さです。

❹相生坂(あいおいざか)

 相生坂は坂の標柱には「『続江戸砂子』によると、小日向馬場のうえ五軒町の坂なり。二つ並びたるゆえの名也という」とあり、また「『新選江戸誌』では鼓(つづみ)坂とみえ、二つありてつづみのごとし」とも書いています。

 この2つ並行に並んだ急な坂道は今も昔も同じ場所で、同じように東五軒町から神楽坂の大地へ伸びています。

❺瓢箪坂(ひょうたんざか)

瓢箪坂は現在の⽩銀町と神楽坂6丁⽬の間、約40mの坂道です。最初は緩やかな上り坂ですが、⽩銀公園に差し掛かる⼿前で急勾配になります。坂の名前は途中がくびれた形になっているから瓢箪(ひょうたん)と付けられたそうです。

この坂の下の⽅に駒坂という⽯段(次回の階段編でご紹介いたします)がありますが、この名前が「瓢箪から駒」からきたとか、こないとか、江⼾時代の⼈々のユーモアなのでしょうか。

❻御殿坂(ごてんざか)

坂名の御殿は、新宿区の標柱によると「江⼾時代の寛永の頃(1624〜44年)、三代将軍家光(いえみつ)が鷹狩の際にこの場所(筑⼟⼋幡神社の⻄側)に仮御殿をもうけた」ことから御殿⼭と呼ばれ、坂の名前が御殿坂になったと書いています。ちなみに家光は病弱であったため、家⾂に政は任せていたので鷹狩の仮御殿も家光の体を⼼配して、江⼾城からそう遠くない場所にもかかわらず、この地に鷹狩り⽤の仮御殿を建てたのでしょう。そんな病弱な家光の時代に徳川幕府の⻑期政権への礎が完成したとも⾔われています。

次回は、神楽坂近辺に多い⽯の階段をご紹介する「階段編」です。